濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

今年のカンヌといえば、調子に乗った還暦のカラックスが小汚い出立ちで所構わずタバコを吸っているところを(映画作家のテンプレ的姿として)マスコミにフィーチャーされ、大衆のオモチャになっている様を見せつけられたことまでは記憶している。自分のヒーローの受けている痛々しい扱いに随分と悲しい気持ちになってしまったので、それ以上の情報には触れないようにしていたのだけれど、それでも、濱口が圧倒的に着られている感のあるタキシードで脚本賞受賞のため登壇し、なかなかしっかりしたスピーチをやってのけたという話は流石に耳に入ってきていた。ということもあり、仕事の案件が一段落し、心の余裕が戻ってきたタイミングで見に行かないかと友人から誘われ、久しぶりに劇場に足を運んできた。

 

全体的な雰囲気としてはヴィム・ヴェンダース『誰のせいでもない』を思い出した。最早どういう内容だったか覚えていないし、こちらはヴェンダースが「人物の心の深い奥こそ3Dで語るにふさわしい」とか言って大コケしていたけれど。

 

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さて、本作だが、村上春樹が原作で提示した問題意識を映画に置き換えることに成功していると言っていい思う。村上春樹の作品ではそれ自体が語られることはない記号化した言語が、ここでは現実に発せられ、スクリーンを音で埋め尽くしている。

 

これほどまでに過剰に散文化した言語の挿入は、映画の悦びを否定することと並行して行われており(例えば、身体性の発露は極端に抑えられ、移動によって有り得たはずの運動は全て車に置き換えられている)、そこに観客は強烈な嫌悪感を覚える。それでも観客が三時間も画面を無理なく見続けられるということ自体濱口の卓越した手腕によるものであり、また、こうも躊躇いなく映画を主題の成就の手段としてしまうことに驚きを隠せないのだが。

 

この違和感が、村上春樹の言葉(石という表現は短編「タイランド」より)を借りるのならば、自分の中に石を持つ観客の認識を揺るがす契機ともなる。

 

映画の目的が村上春樹の目的を忠実にスクリーン上に再現することであったことは明白であり、つまり片割れを喪失した者同士(主人公とドライバー)が心の奥底に抱えていた石の輪郭を相互コミュニケーションの中で発見し(終盤、訪れる無音は、積み重ねられたテキストの欺瞞が暴露されることの象徴でもある)、最早語り得ない現実の出来事≒石と自らがそれを語ることの永遠のズレを認識することで、雪解けの契機を促すことになる。

 

最後ドライバーは車と犬という主人公と、韓国人夫婦の記号≒石を譲り受け、異国にて再出発する。それが彼女のズレを知覚させ、過去からの解放へと向かわせることを期待させて。

 

と、まぁ今回の記事が濱口による村上春樹の主題の映画への華麗なる置き換えを確認する作業になってしまったことは否めないけれど、それでもカラックス的なホテルの外観の描写、タルコフスキー的な道路の描写、またはキアロスタミ的な車内の描写、アンゲロプロス的な海を眺める階段で向かい合う二人の描写等、映画の記憶の宝箱を覗き込むような、名状し難い幸福な体験がそこにはあった。

 

村上春樹の「いえ、僕全然セックスとか興味ないです」みたいな去勢された感じで書いてきたのに、いざそのシーンになると急にどっかにしまってた金玉二つ装着して脂ぎったねちっこい中年オヤジを隠せなくなるところ(ここが本当に村上春樹のキモくてダメなとこ)も冒頭で再現されてていい感じ。濱口、本当に優秀なヲタクだ。

アピチャッポン・ウィーラセタクン『世紀の光』について

久しぶりに映画を見た。リハビリでお気楽なアクション映画でも見ようかと思っていたのだけれど、何故か抗えない意志の力によって手にとってしまったのはアピチャッポンだったので、これまた久しぶりに記事を書いた。ちなみに僕がアピチャッポン映画を見るのはこれが2作目で、今まで『ブンミおじさんの森』しか見たことないし、ブンミおじさんはもう中身忘れたからこの記事は作家論って事ではないよ。


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今作の構図、これには=空間(場)、=シンドロームといった重層的な意味の横断があるという、何よりも映画的な前提があることに一種の(構造を把握できることへの)安心感を覚える。と同時に、イーストウッドを語る時などの、あの何から手を付けていいか全く分からなくなる無力感を感じることがないのは、果たして映画本来の持つ情報量から言って表現の健全な発展と言えるのか疑問に思わないでもない。とりあえずはこの雑文において以上で挙げた構図、空間、シンドロームは≒Nearly Equalなのでその点留意して読み進めていただきたい。

 

アピチャッポンを見るうえで、個人的に気になるのは構図に人がハマり、そして抜けていくことに関して小津を越える意識を向けさせられるところにある。写真ではなく動画であるところの映画において、構図が常にキマっているというのは不可解にして不可能なことであり、構図は常に定まることと定まらないことの強弱の間を往復することを余儀なくされている。

 

一般的に、アピチャッポンのカメラワークは誰かがいたあとの魂の残滓、または魂の収まるべき場を強く意識させるとされている。これに似たようなコメントはフィルマ(映画のSNS)を開けばいくらでも出てくる。しかし、そこに投稿しているほとんどの人間はアピチャッポンについてスピリチュアルだ、霊的だ、東洋的だとかいうふんわりとした感想を持つ以上の知的遊戯ができていない。

 

アピチャッポン映画に誰もが抱くお盆の時期のようなこのヒンヤリとした感触は、構図の揺らぎとともに考えられるべきである。“ハマる”方は構図に主体があり、“抜ける”方は人に主体があるという、映画の力学的な評価につながる。とはいえ、映画における構図と人の問題はぶっちゃけ卵が先か鶏が先かという、因果関係のない相関関係に成り立つものであるから、これを大真面目に考察するというのは「現実」を援用する限りにおいてはまるでナンセンスなのだけれど、しかし本作のように監督の意図が介入する場合、「フィクション」としては成り立つ。

 

さて、本作においてはどちらの力学が設定されているかというと、“ハマる”方、つまり空間である。これは同じ人物が時代を超えて空間に在ることからも自明であるし、作品終盤の、排気口へと吸い込まれていく煙にカメラが長回しでゆっくり近づく象徴的なカットからも映画術的な説明ができる。

 

空間は言い換えるならば、シンドローム(原題から。意訳して「社会の症例」としておく)であり、その症例とは人のプリミティブな要素(恋愛、闘争など)が創り出すもの、もしくはそのものである。空間が、シンドロームであるならば、そこに存在がハマってしまうのは必然であると言える。人が空間を作るというよりは、空間がそれを埋める存在を欲しているのだ。過去と未来は空間として等価とされているからこそ、そのどちらにもある仏像のように男性医師が空間を超越し過去と未来において存在することは可能なのである。しかしそれは等価であるからこそ「外でもないあなたも」というわけではない。自然が駆逐され、近代化、工業化されたように、未来に女性医師はいない。そのシンドロームを男性医師は治療することができない。

 

しかし、最終的に映画はペシミスティックな調子で合わることはなく、結論を公園のエアロビ集団にポイッと放り投げている。これは、それまでのしっとりとした院内での人間の動きとはまるで違うエネルギーを感じさせるものであり、ゆうてもこれは臨床的な映画だから、といったようなオプティミスティックな軽さで終わるので、この振り幅が緻密な小細工を超えて何よりも映画的でズルいなとも思う。

コロナ時代の職業選択

コロナ禍で、人々の仕事に対する見方は大きく変わる、いや既に変わりはじめている。具体的には、人々が仕事を強度や安定度といったまなざしで見るような傾向が強くなる。これは、言うならば人々が今後職業のデュー・ディリジェンスなるものに少しは注意を払い、職業選択のタイミングで各々考えられるリスクを挙げて、その職業の将来性や期待される収入などに負荷をかけてシミュレーションするようになるのではないかということでもある。

 

何故急に映画の話しかしない人間がこんな話に始めたのかというと、それはやはり、東京女子医大・ボーナス支給ゼロで退職希望400人超(これはどうやら撤回されたようだけど)といったインパクトのある記事や、身の回りでも渋谷の有名クラブの閉店、有象無象のライブハウスの閉店、池袋のジャズバー・バガボンドの閉店など、コロナの煽りを受けて各所で経営に傾いた店が閉まってきたからに他ならない。

 

先に断っておくと今回の記事は「びっくりしたんだよね」と言いたくて書いただけで、disでも何でもないので、この記事を見てくれてる人たちにはどうか精神を荒立てることなく、リラックスして読み進めてほしい。とりあえず、僕がこの一連の流れを目の当たりにして不思議に思ったのは、「なんで彼らは被害者ヅラをしてるんだろ」ということだった。彼ら(医師、看護師、バンドマン、飲食店主...コロナで煽りを食らった人々)は確かその職業を職業選択の自由のもとで選んだはずだった。人は、(少なくとも僕は、)何か自分の人生における重大な選択をするときには、とりあえずリスクを考える。そしてそのリスクの内訳を分析して、許容できるものか考える。これらが済んだらゴーサインを出してリスクテイクしていく。僕は、これが自由主義の法のもとで絶えず選択を繰り返さなければならない現代人が会得すべきごくごく初歩的な生き残りの技術(普通の暮らしを送るといったことはこの選択に正解し続けるということであり、現代においてそれはかなり難易度の高いものとなってしまった)なのだと思っていたし、選択の洪水と強迫観念こそが自己責任の真の姿なのだと本気で思っていた。

 

医者や看護師になるということはつまり感染症が起こると現場に駆り出されるということだし、自衛隊員になるということは国境で小競り合いが起きたら命を落とすかもしれないということであり、バンドマンになって夢を追うということは殆どの場合、生活の金銭的充足を諦めるということであり、飲食店主などのスモールビジネスを始めるということは一度経営が傾いたら立て直せなくなるということだ。

 

もちろん、こんな単純な前提があるとしても看護師がストライキをしたり医者が職務放棄をしたり、バンドマンが何も出来ず途方に暮れたり、人々が助成金を要求してデモをしたりするのは自由であって、物事のメリットだけを見て判断し、デメリットに当たったときには行政を非難するというのはそれはそれで正しい姿だ。どこかの看護師がツイッターで「職業的使命感から仕事をしてるわけじゃなくて金払いがいいから仕事をしてるんだよ」などとキレていても、何だコイツは...とは思うがこれはこれで構わない。だけれど、分かっていたことに対して善意無過失を主張されるとこっちも擁護する気が失せる。仮に本当に分かってなかったんだとしたらそれはおめでたすぎるというか、人生に対して無責任すぎる、または選択に対して無自覚すぎるということで、それはそれで嫌悪感が出てくる。こんなままではいつまで経っても何も起こらない。彼ら、彼女らがその仕事のメリットだけを享受したいのであれば、社会にその有用性を示し、社会を味方につけないといけない。ムーブメントを起こし、デメリットを潰していく必要がある。これは個人的なリスク管理の社会への拡張であり、現代社会の乾いた個人主義を打開する有効な手立てでもある。そして個人的なリスクを社会のリスクと紐付けることは看護師に出来てバンドマンには出来ないことでもある。ただ、社会の力、人々の共感の力を借りるというのはつまりこちらも相応の対価を差し出す必要があるという事だし、看護師の場合それは自身に死の危険が迫っても病棟から逃げ出さないこと、となるだろう。現在看護師が高給取りなのはそのヘッジできないリスクに対する社会的補填だとも言えるのだ。

 

確かにコロナは予測不可能で、個人のリスク管理の範疇外にあるものだとは言えるかもしれないし、実際そうなのだろう。けれども、「今後は」、個人のリスク管理にコロナだって組み込まれていく。だとしたら今、刷新された職業のデュー・ディリジェンスを考えることに意味はある。これが今後の職業選択のスタンダードになるような気がしてならない。

UPLINK潰せばいいんじゃないですか?

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今泉力哉監督がツイッターで「アップリンク、俺は今後も行きますよ。アップリンクをよくしたくて声をあげたわけだと思うので。」とツイートされてた。

僕は個人的にアップリンクは潰れてもいいと思ってる。というか、アップリンクは今の映画文化空間のキツすぎる空気感を全て内包しているので、こんなものを有り難がっているうちは自称「映画好き」の皆さんもお終いだな、と思ってる。

一応(大衆娯楽以外の)現代映画というものは反体制的というか、自由主義的な志向の強いリベラルな空間だったはずだと記憶している。最近のカンヌ受賞作を見てみてほしい。そんなのばっかだと思う。別にこれが良いとか悪いとか、この場ではそんな議論はしないけれど、日本のミニシアターだって近年は国内のみならず海外のそういった先鋭的で革新的な思想をもとに撮られた映画を上映しようとしてきた経緯があったはずだよね。アップリンクのまずいところは、そんな中でミニシアター界のボスとして振る舞ってきたにも関わらず、パワハラとか個人の尊厳の否定とかいうおよそ自らの配給している映画の理念とはかけ離れたものを元従業員に白露された点だと思う。でも、これは雇用者が悪いとかいう単純な話ではなく、今の映画を取り巻く構造の問題で、それでもってこれが冒頭に述べたキツさの正体なんだと思う。

ミニシアターの求人を探して見てほしい。殆どが最低賃金(実質はそれ以下)で労働条件もふんわりしている。それなのにいざ求人を始めると何百人も応募してくるなんてザラ。ほぼ受からない。なんでミニシアターで働きたい人間がこんなに多いかって、そりゃやっぱりみんな大好きな映画を仕事にすることに憧れてるからだと思う。だからやりがい搾取されても喜んで働く。彼らは、(ぶっちゃけ大したことしていないのに)我が物顔で劇場に立ってる。彼らは「提供する側」で、映画を「与えられる」観客に対して優越的な地位にいると錯覚している。

やりがい搾取の構造は、映画製作の現場でも昔から横行していた話だと思う。ポン・ジュノのどこかのインタビューで監督はそういうのとも闘って来たって書いてあった。映画が克服しようとしているその旧態依然としたシステ厶を、ミニシアターが放置しているのははっきり言って怠慢としか言いようがない。

この文脈でいうと、アップリンクはミニシアターに加えて配給もやってるからちょっと面倒くさい(これが思い上がりの元凶でもあると思う)けど、要は僕が言いたいのはミニシアターの箱も配給も、提供する側は神様じゃないし何も偉くないってこと。アップリンクが潰れても他のどこかが代わって作品を配給するだろうし、それなりの需要はあるんだから人口密集地に新しいミニシアターが生まれることもあると思う。あくまでも客がいるから成り立ってる商売ってこと。

けれどその客がこれまた問題で、僕は常日頃、なんで彼らがアップリンクなんて酷いおままごとのような箱にわざわざ出向いて小さいスクリーンとチャチな椅子に収まって映画を見ることが出来るのか理解できなかった。果たして、アップリンクで「映画を見た」と言えるのか疑問だった。観客が無条件でこれらを受け入れているというのはつまり、配給だったり上映だったりの大いなる勘違いを許していることに変わらないんじゃないかと思う。アップリンクは儲かってないから箱はクソだけど、その高らかな理念に共感してあえて見に行くのなら、(これまでは、)まだ良かった。ただ、今後もアップリンクに行くことを高らかに宣言して、早々にアップリンクを擁護することに回るのはもうそれは決定的に違うんじゃないかと思える。

客は、己のメンタリティを変えなければならない。その結果、馴れ合うことなく、配給やミニシアターとも対峙しなければならない。相手に聞き入れさせるには、「見放す」という選択肢をもってその存在と力を示さなければならない。客が当事者意識を持って改善を求めなければならない問題が山ほどある。でなければ客が映画に依存し、ミニシアターがそれに甘えているこの界隈は何にも変わることない。だからこそ、今回はこんな挑発的な記事を書いた。


映画はファッションじゃない。羽織るには重すぎる。あくまでも向き合うべきものなんだと僕は思う。映画は待っていたら与えられるものでもない。あなたは主張しなければならない。映画はあなた自身であるとあなたが信じているのならば、映画と地続きに在るリアルも全てひっくるめて批評しなければならない。

それが映画を愛すってことだと思う。
そうでないのなら、「あなたに映画を愛しているとは言わせない」。あなたにはまだその覚悟が無い。

ボビー・オロゴン逮捕―妻の独白―とカサヴェテスの諸監督作品は完全に繋がっちゃってるんだよね、って話。

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これは『オープニング・ナイト』を見ていて、カサヴェテスがリハーサルでジーナ・ローランズをぶん殴ってから「触っただけだ」と言ってのけたあたりに閃いたことだけど、カサヴェテスの作品群を貫く主題はボビー・オロゴンの逮捕時の妻の告白(URL記事参照)と同じ問題がベースにあるんだよね。

https://toyokeizai.net/articles/amp/352488?display=b&_event=read-body

つまり、僕が言いたいのは家庭内の閉じた特殊空間と関係性の力学についてなんだけれど、これはまずカサヴェテスの作品で何が描かれていたかをいくつか引き合いに出して説明をしたほうがいいと思う。

『フェイシズ』(1968)では、ディスコミュニケーションと関係性の慢性的な取り返しのつかなさが現実的な停滞の腐臭を埋め尽くすように言葉や行動として現れている。そしてその全てがストレスと虚無感に覆われた時、生活の破綻は可視化される。

そして、『こわれゆく女』(1974)では『フェイシズ』で可視化されたディスコミュニケーションを生活の破綻へと繋げず、日常生活における反復と平行線の肯定に移行している。原題のような(強力な影響を受け合うがそれでも小世界として完結している)特殊空間としての内と、「普通であること」の同調圧力からから逃れられない外の、緊張したせめぎあいが見られる。

さて、冒頭に触れた『オープニング・ナイト』(1978)もベースはこれらの作品と同じテーマのヴァリエーションであることに変わりはない。メタ構造が導入され、家庭が演劇として舞台上で展開されているだけである。『オープニング・ナイト』はちょっとノイズが多いので例えば『こわれゆく女』はどうだろう。永遠に続くように思われる夫婦間(内)の支配と被支配の関係、外からの視線、爆発。それでも夫婦としての形を維持し続ける点、ボビーの事件はカサヴェテスと通じるところがあるんじゃないかな。


ボビー一家の家庭内状況が実際の所どうだったのかは知らないけど、妻の独白を読む限りカサヴェテスの描く家庭の現代におけるリアルな顕在化した例のように思える。別に良し悪しを議論する気は全くなくて、ボビーの逮捕はカサヴェテス的だ、という点を指摘したかったのよね。


  ― 終 ―



余談だけど仕事を初めてタスク過多で忙しいので今後どこにもまとめる機会はないだろうからカサヴェテスのインプロヴィゼーションに関して、雑にまとめておきます。


カサヴェテスにおいて、インプロヴィゼーションがその外枠、つまりカメラワークだけを残して形式化していくことに関しては、カメラワークまたは映画を身体性に委ねる判断が撮影の力学上なされたという事だと思う(すげぇ簡単に言うとカメラが身体を動かすのかその逆かってこと。これは映画作家によって違う)。『オープニング・ナイト』においては映画が委ねられた身体性が、今作の設定である「演じること」に接続され、主題と設定が重なることで、また部分的に舞台上で劇中即興劇が導入されることでメタ構造化し、映画の映画による解決を促す。

『フェイシズ』では、『アメリカの影』(1959)で見た完全なインプロヴィゼーションからはアプローチが変わり、監督から役者へと感情の変遷を取り巻く演出の権限の譲渡がある程度行われているという印象。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)では、無気力ストリップクラブという客の性欲だけで保っているようなあまりにもだらしない空間が多分演出の大部分を役者に託す形で懇切丁寧に描写され、ポーカーや殺人などの説話的に重大なイベントは流れるように処理される。事象の一般的な意味づけ、その重さが反転している。こういったことからカサヴェテスにおけるインプロヴィゼーションについて考える際は身体性に関する演出の譲渡がキーワードになってくると思う。

以上

テオ・アンゲロプロスについて

・「長回し」について

アンゲロプロス長回しは恐ろしく長い。カメラワークは例えば屋内においては柱などお構いなしに対象の運動を追い、空間をぶった切る。『旅芸人の記録』などでは空間を横断しつつ時間をも横断することがあり、とにかくダイナミックなカメラワークがダイナミックな物語構築に貢献している。長回しは実時間を切り取りってリアルを装うので観客はそれに沿うようにして、映画を「追体験」することになる。追体験したことは、観客の経験となり、蓄積されて記憶となる。

 

「私のやっていることは速度の速いアメリカ映画への反動です」「(コーヒーを時間をかけて飲むことを引き合いに出したうえで)時間をかけるべきなのです」アンゲロプロス、『エレニの旅』日本版DVDインタビューにて

長回しの質的比較・タルコフスキー、アレクセイゲルマン、ゴダール「ウィークエンド」

 

・画について

青い海、青い空、白い建物などテンプレートなギリシャの情景からの乖離。アンゲロプロスの映画では曇天に雪、霧、雨。傘をさす人々という暗い光景になっている。これは20世紀ギリシャを生きた人々の死、別れ、移転のすべてと呼応する形になっている。例えば『霧の中の風景』では海から石像が引き上げられるシーンがあり、ここではオブジェクトを象徴的に使っている。しかし、アンゲロプロスの真骨頂はむしろ「リアル」に介入する時間もしくは空間のズレといったような誌的な画の違和感にあるだろう。

→『霧の中の風景』の予告

 

・国境

「私の国境の問題は内面的な問題でもあります。なぜなら内面にも国境は存在するからです。私たちは目の前にいる他者を理解するために内面の国境を乗り越える方法を見つけなくてはなりません。(・・・)もし映画作品が観客のまなざしに出会ったのならこれはコミュニケーションです。(・・・心が動かされれば・・・)その場合に映画は「存在」します。」アンゲロプロス、『エレニの旅』日本版DVDインタビューにて

アンゲロプロスの作品に繰り返す登場する「忘れ去られるであろう過去の人間」としての旅芸人。変化と移動の象徴。

→『こうのとりたちずさんで』の予告など

 

 

映画はヌーベルバーグ前後から常に「映画的」であるかないかの議論がされてきた。今回の「無意識」をめぐるテーマは、映画はそれ自体シュールレアリスティックだという話にもあった通り、映画そのものが映画的に成功しているのか考える際に役立つ。

 

無意識のアプローチできるのが詩情であり、映画においてそれは映像のポエジアである。それはイメージに潜むプリミティブな恐れと慄きを内に秘めた感情から導かれるものであり、またはカットの超現実性(現実的に視界に入る風景は完全とは言えないものが大半なので)からくる現実との齟齬によるものである。その点ではアンゲロプロスの作品は我々を超現実的なものの知覚へと誘う痙攣的な美なのだと言ってもいいのかもしれない。

 

というのも例えば『霧の中の風景』を例にとると「雪の降る中動きを止める人々」「逃げる花嫁と死んでいく馬」「海から引き上げられるレーニンの右手」のシーンなどにおいてはその意図する効果がシュルレアリスムの意図する効果と似ているのではないだろうか。それはロラン・バルト的に言えば〈提示できないもの〉の提示であり、意味の反乱と混沌が見る者の無意識に「ポエティーク」(詩的なもの)な情念と自覚を湧き起こすのである。そしてそれは映画の「存在」それ自体に強い力を及ぼすのではないだろうか。

ルドン展についてのメモ

2月8日から、三菱一号館美術館でルドン展をやっている。三菱一号館美術館というのは良いところで煉瓦造りの建物と、落ち着いた雰囲気、加えてミュージアムショップで扱っているギフトが良く出来ている。始まったばかりの特別展でも人は多くならないし客層も落ち着いている印象を受ける。とはいえ、選別は完全ではなくて類人猿からすっかり進化が止まってしまったかのような煩い女がいたはいたのだが。たまにクソ女が紛れ込んでしまうのは美術館の仕方ない点なんじゃないかと思う。


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今回のルドン展はルドンと彼の描いた植物をフィーチャーしているという点でユニークだ。ルドンといえばボードレール悪の華』の挿絵が(僕の中では)一番有名なんだろうが、目玉のある植物とか幻想の怪物とかの銅版画は少年の心を忘れていない人間ならやはり見ているとかなりワクワクする。加えて僕は脳が映画に冒されているので初期の『スペインにて』の時点でエッチングは荒いのだけれど、それでも構図とコントラストはかなり意識されていて、そういうを映画の構図と繋げて考えてしまう。以下は展示の一章から追っていくことにする。

 

 一章

『ペイルルバードの小道』『メドックの秋』を見ると、飛び出してきそうな絵に驚く。よく見ると被造物のレイヤーが前後にある(背景前景というよりはレイヤー)。後ろのレイヤーは空とかと合わさってフラット気味なのに対して、前のレイヤーは立体感を演出するために筆運びを変えて絵の具が盛られているのが分かる。

 

二章

説明の一つにルドンはキアロスクーロ(明暗法)を意識していたとある。それは銅版画『夢の中で』の黒い木と空間の白の対比であったりに既に見られる。また、この濃淡の配置は『ヤコブと天使』のように彩色になっても現れている。彩色において、ルドンの色、特に背景の色彩は混ぜられ、何かになろうとしている以前のデュナミスのような様相を呈しているように感じられる。もしくはヒューレのような状態か。それらが表現されているように思う。ちなみに話は変わるが、『キャリバンの眠り』においてキャリバンの上でウヨウヨしているハエみたいなのは熾天使なのではないだろうか。

 

三章

三章で触れられるアルマン・クレヴォーは『夢想』にあるように、ルドンによってほとんど神格化されている。『若き日の仏陀』は良い。ルドンの神秘主義への憧憬みたいなのをひしひしと感じる。この他の何点かも合わせて正教会のイコンに似た印象を受ける。本質が似たようなもの何かもしれないし、もしくはイコンを参照しているのかもしれない。

 

四章

ドムシー男爵の食堂装飾ということで本特別展の目玉であるし、確かに凄いことは凄いのだが、展示のライティングがとにかく良くない。ガラスに反射して見えない。加えてこれは言っていいのか分からないのだが、やはりルドンは小品が似合う。彼のまなざしは被造物を構成する最小単元へと向けられているわけであるし。

 

五章

良い。気持ち悪いのにどこか愛嬌のある怪物がウヨウヨ展示してあって良い。『起源』などで、胚芽から独自の進化をする人を描くルドンの斬新な空想に触れられるのも興味深い。

 

六章

例えば展示番号68の方の『蝶と花』を見ていると、ルドンのまなざしは、在るものが無いものの漠とした広がりの中から不確かながらも生じていくその過程へと向けられているのだなと感じる。そして、蝶が花であり、花が蝶であるかのようにルドンにとってその存在の境は絶えず揺れ動くわけだ。

 

七章

ゆっくり三十分程度眺めていたいのは、やはり『大きな花瓶』だろう。この展示空間は本当に素晴らしい。暗い部屋に絵画だけに向けられた弱めのライティングで絵画が浮かび上がっている。部屋の広さもある程度余裕があるので全方向から満遍なく見ることができる。絵の右側に長椅子もあってここに腰を落ち着けて見入ることができるのも良い。黒コートのスラリとした美人が絵の前に立っているとコントラストで最高に良い。ルドンの黒を見てからパステルや油絵などの彩色に移るとその豊かさに驚かせられる。その描かれている対象が実のところまだ完全なエンテレケイアへと至っていないのだと、何ものでもなく、何ものにもなれる(もしくはなれない)動の豊かさの可能性を感じる。

 

最後に、ルドンの彩色絵画のレイヤーについてもう少し触れてみたいと思う。前後にレイヤーが分かれているように感じるというのは既にメンションしたが、最前に(花などとして)赤が印象的に散らしてある場合がある。これは例えばその下が白もしくは青ベースの場合、絵画全体を引き締めている(小津のカラー映画みたいなことを言ってしまっているが笑)。加えて、蝶と花に直接的に見られるように、俺は芸術という虚構を用いて現実を揺さぶるのだというルドンの信念を感じ取ることができると、この画家を好きになれるのかもしれないと思う。