アンドレイ・タルコフスキーについて(アンゲロプロスを引き合いに出しつつ)

タルコフスキーの映画には『ローラーとバイオリン』『僕の村は戦場だった』『アンドレイ・ルブリョフ』『惑星ソラリス』『鏡』『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』がある。映像の詩人は寡作であり、その作品のどれもが圧倒的な完成度を誇っている。美しく抑制された画面の神秘は魔術であり、見る者を引き込み、離さない。

 

水、霧、風、火、鏡、馬などのモチーフ

タルコフスキーの映画にはよく上記のモチーフが出てくる。僕には何故馬が出てくるのかは分からないしその他のモチーフに関してもタルコフスキー自身では無いので答えは用意できない。加えて、モチーフによる隠喩は観客の知覚から常にこぼれ落ちてゆくものであるし、それが果たして作者の意図と合っているかも分からないのであまり触れないことにしておく(タルコフスキーもイマージュはあくまでイマージュであるみたいなこと言ってた気がしますし)(逃げの姿勢)。けれど水・霧・風・火・鏡の持つだろうと思われる効果から彼の意図についてなんとなく予想がつく。水・霧・風・火に関してはきっとそのプリミティブなイメージ、つまり野生がヒトの根源的な恐怖を喚起するから使われているのだろう。美しさは負の感情との相性が良い。映像は恐怖を内包すると一段と美しくなる(アンゲロプロスの場合、これは雪だろう)。美しい映像は人を引き込み、とりあえず映画を見ようとする観客を作り出す。鏡については、後述するイメージについての箇所と関係があると思われる。

 

イメージ

特に『鏡』において、イメージは記憶に沈殿して重なり、合成されたイメージとしてモノクロで提示される。鏡は現実を映す虚構であり、イメージの反復であり、記憶につながるものである。反復されたイメージは例えば『鏡』において、沈殿して重なり、咀嚼され(コードが変換され、プールされ、またイメージの形で)吐き出される。このイメージはタルコフスキー自身の内省的な操作によって生まれたものであるが、だからといってそれがタルコフスキーだけの個人的な営みに終わり、我々観客に当てはまることはないだろうというわけではない。というのも、例えば村上春樹の言うように、自分の井戸を深くまで掘り進めていくと、どこかで地下の水源にたどり着くだろうし、辿り着いた水源へは他の人間も井戸を掘り進めているだろう、だからである。これが世界の救済というテーマに繋がってくるのだろう。

 

長回し

タルコフスキー長回しアンゲロプロス長回しと比べて見ると、そのカメラワークは随分と違う。タルコフスキーの場合、カメラの先の空間は3次元的に切り取られ、その中に敷かれた仮想のレールを役者かカメラ、もしくはその両方が移動し役者は常にカメラに捉えられ画面の中に据えられる。であるから例えば『サクリファイス』における老人と孫、その周りを自転車で回る郵便配達員のシーンなどでは、計算されたカメラの運動の中で全ての対象がうまい具合に運動しつつ画面に収まる。アンゲロプロスはどうかというと、彼のカメラワークは柱などお構いなしに対象の運動を追い、空間をぶった切る。『旅芸人の記録』などでは空間を横断しつつ時間をも横断することがあり、とにかくダイナミックなカメラワークがダイナミックな物語構築に貢献している。加えて、とにかく長回しは実時間を切り取り、物語への観客の参加を促すので、その意味で両者の映画は、観客に対して休みなくひたすら映画と対話し思考することを強要していると言えるかもしれない。

 

「世界の救済」というテーマ

 世界の救済は、タルコフスキーの作品群を貫くテーマであり、『アンドレイ・ルブリョフ』や遺作である『サクリファイス』に顕著に現れている。また『ストーカー』『ノスタルジア』『惑星ソラリス』からも汲み取れる。では、世界の救済とは何なのか。これは難しく考えるよりはタルコフスキーの芸術信条であると解釈したほうが良いように感じる。つまり、芸術の目的は世界の救済にあり、もしかしたらタルコフスキーの場合は映画制作を通した己の救済、映画を通した観客、世界の救済を模索しているのかもしれない。

 

注:この救済というテーマのロマンチシズムへの傾倒みたいなところがタルコフスキーの好き嫌いの分かれるところでもあると思う。『惑星ソラリス』や『ストーカー』などは原作があるものだが、タルコフスキーの作品のために原作の本来意図するテーマを大きく外れて、というより原作はむしろタルコフスキーの作品のための枠組みを提供するにとどまっていると受け取れる。
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