テオ・アンゲロプロスについて

・「長回し」について

アンゲロプロス長回しは恐ろしく長い。カメラワークは例えば屋内においては柱などお構いなしに対象の運動を追い、空間をぶった切る。『旅芸人の記録』などでは空間を横断しつつ時間をも横断することがあり、とにかくダイナミックなカメラワークがダイナミックな物語構築に貢献している。長回しは実時間を切り取りってリアルを装うので観客はそれに沿うようにして、映画を「追体験」することになる。追体験したことは、観客の経験となり、蓄積されて記憶となる。

 

「私のやっていることは速度の速いアメリカ映画への反動です」「(コーヒーを時間をかけて飲むことを引き合いに出したうえで)時間をかけるべきなのです」アンゲロプロス、『エレニの旅』日本版DVDインタビューにて

長回しの質的比較・タルコフスキー、アレクセイゲルマン、ゴダール「ウィークエンド」

 

・画について

青い海、青い空、白い建物などテンプレートなギリシャの情景からの乖離。アンゲロプロスの映画では曇天に雪、霧、雨。傘をさす人々という暗い光景になっている。これは20世紀ギリシャを生きた人々の死、別れ、移転のすべてと呼応する形になっている。例えば『霧の中の風景』では海から石像が引き上げられるシーンがあり、ここではオブジェクトを象徴的に使っている。しかし、アンゲロプロスの真骨頂はむしろ「リアル」に介入する時間もしくは空間のズレといったような誌的な画の違和感にあるだろう。

→『霧の中の風景』の予告

 

・国境

「私の国境の問題は内面的な問題でもあります。なぜなら内面にも国境は存在するからです。私たちは目の前にいる他者を理解するために内面の国境を乗り越える方法を見つけなくてはなりません。(・・・)もし映画作品が観客のまなざしに出会ったのならこれはコミュニケーションです。(・・・心が動かされれば・・・)その場合に映画は「存在」します。」アンゲロプロス、『エレニの旅』日本版DVDインタビューにて

アンゲロプロスの作品に繰り返す登場する「忘れ去られるであろう過去の人間」としての旅芸人。変化と移動の象徴。

→『こうのとりたちずさんで』の予告など

 

 

映画はヌーベルバーグ前後から常に「映画的」であるかないかの議論がされてきた。今回の「無意識」をめぐるテーマは、映画はそれ自体シュールレアリスティックだという話にもあった通り、映画そのものが映画的に成功しているのか考える際に役立つ。

 

無意識のアプローチできるのが詩情であり、映画においてそれは映像のポエジアである。それはイメージに潜むプリミティブな恐れと慄きを内に秘めた感情から導かれるものであり、またはカットの超現実性(現実的に視界に入る風景は完全とは言えないものが大半なので)からくる現実との齟齬によるものである。その点ではアンゲロプロスの作品は我々を超現実的なものの知覚へと誘う痙攣的な美なのだと言ってもいいのかもしれない。

 

というのも例えば『霧の中の風景』を例にとると「雪の降る中動きを止める人々」「逃げる花嫁と死んでいく馬」「海から引き上げられるレーニンの右手」のシーンなどにおいてはその意図する効果がシュルレアリスムの意図する効果と似ているのではないだろうか。それはロラン・バルト的に言えば〈提示できないもの〉の提示であり、意味の反乱と混沌が見る者の無意識に「ポエティーク」(詩的なもの)な情念と自覚を湧き起こすのである。そしてそれは映画の「存在」それ自体に強い力を及ぼすのではないだろうか。