ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
そもそも、政治経済学部にいてはこんな質問誰からもされないのだけれど(政治経済学部に籍を置いている人間の殆どは無教養[無関心]なので)、一番好きな画家は誰かと聞かれたらウォーターハウスと答えるようにしようと常日頃から思っている。ウォーターハウスの『ヒュラスとニンフたち』を始めてネットで見た時、ただ息を呑むほど繊細かつ可憐なニンフたちの描写にひどく心を打たれた。出来れば現物を見てみたいのだけれど、当分アメリカに行く予定はないし、ウォーターハウスの知名度はそんなに高くないから上野で展覧会が開かれてあちらからこちらへやってくるといったことも考えにくい。ただ、とはいっても今年で没後100年という大きな節目なはずなのに、そういった話が全然ないのはやっぱり寂しい。まともな日本語のまとめ記事もないのでここに書いておこうと思った次第だ。
ただ、とはいってもウォーターハウスのバイオグラフィーをつらつらと書いても仕方がないのでそれについてはWikiのコピペを以下に簡単に貼っておくことに留める。
ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス(John William Waterhouse, 1849年4月6日 - 1917年2月10日)
・イギリスの画家
・神話や文学作品に登場する女性を題材にした作品が多い
・ヴィクトリア朝の画家(ラファエル前派とされることがあるが厳密にはアカデミー側であるため誤り、らしい。当然影響は受けている)
作品
ウォーターハウスの作品の中でとりわけ僕が好きな作品をクロノロジカルに紹介していこうと思う。
・オンディーヌ(1872)
・クレオパトラ(1888)
・シャロットの女(1888)
(部分)
・オフィーリア(1889)
・フローラ(1890)
・ユリシーズとセイレーン(1891)
(部分)
・嫉妬に燃えるキルケ(1892)
・オフィーリア(1894)
・聖セシリア(1895)
(部分)
・ヒュラスとニンフたち(1896)
(部分)
・マリアドネ(1898)
・オルフェの頭部を発見するニンフたち(1900)
・人魚(1900)
・セイレーン(1900)
・ボレアス(1902)
(部分)
他にも素晴らしい作品はたくさんあるのだけれど、なかなか解像度の良い画像が見つからないのでこれくらいにしておこうと思う。
とにかく、ウォーターハウスの描く女性たちは美しく詩情に溢れており、造形性・素描が確かで、感情表現が豊かであることが十分お分かり頂けたのではないかと思う。古典的な寓意画に題材を取りつつ、19世紀後半の新風がうまく組み込まれたウォーターハウスの作品は我々見る者を魅了して止まないのだ。
アンドレイ・タルコフスキーについて(アンゲロプロスを引き合いに出しつつ)
タルコフスキーの映画には『ローラーとバイオリン』『僕の村は戦場だった』『アンドレイ・ルブリョフ』『惑星ソラリス』『鏡』『ストーカー』『ノスタルジア』『サクリファイス』がある。映像の詩人は寡作であり、その作品のどれもが圧倒的な完成度を誇っている。美しく抑制された画面の神秘は魔術であり、見る者を引き込み、離さない。
水、霧、風、火、鏡、馬などのモチーフ
タルコフスキーの映画にはよく上記のモチーフが出てくる。僕には何故馬が出てくるのかは分からないしその他のモチーフに関してもタルコフスキー自身では無いので答えは用意できない。加えて、モチーフによる隠喩は観客の知覚から常にこぼれ落ちてゆくものであるし、それが果たして作者の意図と合っているかも分からないのであまり触れないことにしておく(タルコフスキーもイマージュはあくまでイマージュであるみたいなこと言ってた気がする)(逃げの姿勢)。けれど水・霧・風・火・鏡の持つだろうと思われる効果から彼の意図についてなんとなく予想がつく。水・霧・風・火に関してはきっとそのプリミティブなイメージ、つまり野生がヒトの根源的な恐怖を喚起するから使われているのだろう。美しさは負の感情との相性が良い。映像は恐怖を内包すると一段と美しくなる(アンゲロプロスの場合、これは雪だろう)。恐ろしくも美しい映像は人を引き込む。鏡については、後述するイメージについての箇所と関係があると思われる。
イメージ
特に『鏡』において、イメージは記憶に沈殿して重なり、合成されたイメージとしてモノクロで提示される。鏡は現実を映す虚構であり、イメージの反復であり、記憶につながるものである。反復されたイメージは例えば『鏡』において、沈殿して重なり、咀嚼され(コードが変換され、プールされ、またイメージの形で)吐き出される。このイメージはタルコフスキー自身の内省的な操作によって生まれたものであるが、だからといってそれがタルコフスキーだけの個人的な営みに終わり、我々観客に当てはまることはないだろうというわけではない。というのも、例えば村上春樹の言うように、自分の井戸を深くまで掘り進めていくと、どこかで地下の水源にたどり着くだろうし、辿り着いた水源へは他の人間も井戸を掘り進めているだろう、だからである。これが世界の救済というテーマに繋がってくるのだろう。
長回し
タルコフスキーの長回しをアンゲロプロスの長回しと比べて見ると、そのカメラワークは随分と違う。タルコフスキーの場合、カメラの先の空間は3次元的に切り取られ、その中に敷かれた仮想のレールを役者かカメラ、もしくはその両方が移動し役者は常にカメラに捉えられ画面の中に据えられる。であるから例えば『サクリファイス』における老人と孫、その周りを自転車で回る郵便配達員のシーンなどでは、計算されたカメラの運動の中で全ての対象がうまい具合に運動しつつ画面に収まる。アンゲロプロスはどうかというと、彼のカメラワークは柱などお構いなしに対象の運動を追い、空間をぶった切る。『旅芸人の記録』などでは空間を横断しつつ時間をも横断することがあり、とにかくダイナミックなカメラワークがダイナミックな物語構築に貢献している。加えて、とにかく長回しは実時間を切り取り、物語への観客の参加を促すので、その意味で両者の映画は、観客に対して休みなくひたすら映画と対話し思考することを強要していると言えるかもしれない。
「世界の救済」というテーマ
世界の救済は、タルコフスキーの作品群を貫くテーマであり、『アンドレイ・ルブリョフ』や遺作である『サクリファイス』に顕著に現れている。また『ストーカー』『ノスタルジア』『惑星ソラリス』からも汲み取れる。では、世界の救済とは何なのか。これは難しく考えるよりはタルコフスキーの芸術信条であると解釈したほうが良いように感じる。つまり、芸術の目的は世界の救済にあり、もしかしたらタルコフスキーの場合は映画制作を通した己の救済、映画を通した観客、世界の救済を模索しているのかもしれない。
注:この救済というテーマのロマンチシズムへの傾倒みたいなところがタルコフスキーの好き嫌いの分かれるところでもあると思う。『惑星ソラリス』や『ストーカー』などは原作があるものだが、タルコフスキーの作品のために原作の本来意図するテーマを大きく外れて、というより原作はむしろタルコフスキーの作品のための枠組みを提供するにとどまっていると受け取れる。