『北斎とジャポニズム』『ゴッホ展』、西美と都美の企画展について

国立西洋美術館東京都美術館の企画展を一日かけて見てきた。とにかくどちらも人が多くてうんざりしてしまったが、今日は三連休の初日であるし仕方がない。こんな日に何も考えず上野に来てしまった自分が間抜けなのだ。

 

北斎ジャポニズム

とにかく展示が充実している。企画展にそれ全体を貫く物語性のようなものがあるとするならば、今回はその意図が見事に余すことなく語られていた。展示方法も素晴らしく、北斎の作品と構図などで影響を受けたと考えられる西洋の作品を並べて展示している。展示絵画にとどまらず、陶器やガラス器など、見る人によっては芸術を超えて博物学的な面白さもありそうだ。

 

会場に入ってすぐ、「1章 北斎の浸透」ではまず日本を紹介した19世紀の書物が並べられているが、中でもトーマス・W・カトラー『日本の文様および意匠の文法』が面白い。北斎の版画における「波」を分析しそのパターンを記したページが開かれていたと思う。西洋にとって日本からやってきたこういった斬新な文様は好奇心と研究の的だったのだと理解できる。

 

進むと、エドガー・ドガの作品が並んでおり、今回の展示会の目玉でもある踊り子はやはりその躍動感が素晴らしい。そしてこれらの躍動感溢れるポージングも北斎を参照したものであることが触れられている。

 

アンリ・ド・トゥールーズロートレックのポスター、特に『ムーラン・ルージュ』はそのシンプルなタッチと構成、躍動感が素晴らしい。フリッツ・ルンプフ『ゼーンライン社ラインゴルド』のポスターのエロティックな女の横顔もが北斎の構図を使っているのは驚きだ。

 

進むと陶器やガラス器が多くなってくるが、「セルヴィス・ルソー」の北斎の絵を転写した皿は貧弱で構図も練られておらず、そもそもの絵が固い。あと、名前を思い出せないのだが、赤と金で北斎の絵を転写し用いた皿は最悪だった。しかし、エミール・ガレのガラス器は素晴らしい。こうも大胆に北斎から受けたインスピレーションを発色豊かなガラス細工につなぎ合わせられたのはなぜだろうか。とにかくガレの尖すぎるほど繊細な感性と卓越した技術がそれを可能にしたのだろう。ガレの持つ繊細さはパネルやキャビネットなどにも見られる。問題は重厚なドーム兄弟の花器なのだが、これは数点見ただけでは良く分からない。展示されていた作品の多くが鈍重で発色も鈍いため、ガレに劣るように感じられたのだが、しかし『花器:雪景』は文句なしに素晴らしい。

 

さて、このあとは風景画が続いて展示は終わりである。風景画については書く元気がないので割愛する。

 

ゴッホ

今回の都美のゴッホ展はゴッホの作品がかなり来ている。周辺画家にはほとんど触れないでゴッホ。自分の見てきた東京のゴッホ展で一番ゴッホしているゴッホ展であるような気がする。ただ、「5章 日本人のファン・ゴッホ巡礼」は驚くほど興味がなかったのでスルーした。

 

ゴッホによる『画家としての自画像』、『花魁(溪斎英泉による)』、『寝室』など誰もが知っているマスターピースを見ることができるのは素晴らしい。展示方法は西美と似たようなものだ。ゴッホの絵画の発展をアルルを中心に浮世絵を添えて展開している。

 

銜えて特にこの2作品。『アイリスの咲くアルル風景』はその爽やかさ、列のディーテールの作り出すリズムが気持ちの良い作品だった。そして展示の最後にある『ポプラ林の中の二人』。こんなにも美しく、寂しげな二人を持ってくるなんて。複雑な気持ちを胸に抱いて都美を後にした。

 

まとめ

我々(私)はモネやセザンヌを見て、その構図や色彩感覚に感動する。その大胆で軽快な絵画に魅せられる。しかし、そのルーツの一つは明らかに我々の中にあったものであり、その感動の一つの要因は我々自身に起因するものだったのだと気付かされる。それだけでこれらのジャポニズム企画展は面白い。しかし、こうなるとすぐ西洋画家はパクリで日本がリアルだということを言う人間がいる。そういうことではないのだ。西洋画家たちは浮世絵からインスピレーションを大いに受けたかもしれないが、彼らのうちの幾人かはそれを吸収し、咀嚼し、新たな形として提示することに成功したのだ。これが何よりも意味のあることである。