ボビー・オロゴン逮捕―妻の独白―とカサヴェデスの諸監督作品は完全に繋がっちゃってるんだよね、って話。

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これは『オープニング・ナイト』を見ていて、カサヴェデスがリハーサルでジーナ・ローランズをぶん殴ってから「触っただけだ」と言ってのけたあたりに閃いたことだけど、カサヴェデスの作品群を貫く主題はボビー・オロゴンの逮捕時の妻の告白(URL記事参照)と同じ問題がベースにあるんだよね。

https://toyokeizai.net/articles/amp/352488?display=b&_event=read-body

つまり、僕が言いたいのは家庭内の閉じた特殊空間と関係性の力学についてなんだけれど、これはまずカサヴェデスの作品で何が描かれていたかをいくつか引き合いに出して説明をしたほうがいいと思う。

『フェイシズ』(1968)では、ディスコミュニケーションと関係性の慢性的な取り返しのつかなさが現実的な停滞の腐臭を埋め尽くすように言葉や行動として現れている。そしてその全てがストレスと虚無感に覆われた時、生活の破綻は可視化される。

そして、『こわれゆく女』(1974)では『フェイシズ』で可視化されたディスコミュニケーションを生活の破綻へと繋げず、日常生活における反復と平行線の肯定に移行している。原題のような(強力な影響を受け合うがそれでも小世界として完結している)特殊空間としての内と、「普通であること」の同調圧力からから逃れられない外の、緊張したせめぎあいが見られる。

さて、冒頭に触れた『オープニング・ナイト』(1978)もベースはこれらの作品と同じテーマのヴァリエーションであることに変わりはない。メタ構造が導入され、家庭が演劇として舞台上で展開されているだけである。『オープニング・ナイト』はちょっとノイズが多いので例えば『こわれゆく女』はどうだろう。永遠に続くように思われる夫婦間(内)の支配と被支配の関係、外からの視線、爆発。それでも夫婦としての形を維持し続ける点、ボビーの事件はカサヴェデスと通じるところがあるんじゃないかな。


ボビー一家の家庭内状況が実際の所どうだったのかは知らないけど、妻の独白を読む限りカサヴェデスの描く家庭の現代におけるリアルな顕在化した例のように思える。別に良し悪しを議論する気は全くなくて、ボビーの逮捕はカサヴェデス的だ、という点を指摘したかったのよね。


  ― 終 ―



余談だけど仕事を初めてタスク過多で忙しいので今後どこにもまとめる機会はないだろうからカサヴェデスのインプロヴィゼーションに関して、雑にまとめておきます。


カサヴェデスにおいて、インプロヴィゼーションがその外枠、つまりカメラワークだけを残して形式化していくことに関しては、カメラワークまたは映画を身体性に委ねる判断が撮影の力学上なされたという事だと思う(すげぇ簡単に言うとカメラが身体を動かすのかその逆かってこと。これは映画作家によって違う)。『オープニング・ナイト』においては映画が委ねられた身体性が、今作の設定である「演じること」に接続され、主題と設定が重なることで、また部分的に舞台上で劇中即興劇が導入されることでメタ構造化し、映画の映画による解決を促す。

『フェイシズ』では、『アメリカの影』(1959)で見た完全なインプロヴィゼーションからはアプローチが変わり、監督から役者へと感情の変遷を取り巻く演出の権限の譲渡がある程度行われているという印象。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』(1976)では、無気力ストリップクラブという客の性欲だけで保っているようなあまりにもだらしない空間が多分演出の大部分を役者に託す形で懇切丁寧に描写され、ポーカーや殺人などの説話的に重大なイベントは流れるように処理される。事象の一般的な意味づけ、その重さが反転している。こういったことからカサヴェデスにおけるインプロヴィゼーションについて考える際は身体性に関する演出の譲渡がキーワードになってくると思う。

以上