UPLINK潰せばいいんじゃないですか?

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今泉力哉監督がツイッターで「アップリンク、俺は今後も行きますよ。アップリンクをよくしたくて声をあげたわけだと思うので。」とツイートされてた。

僕は個人的にアップリンクは潰れてもいいと思ってる。というか、アップリンクは今の映画文化空間のキツすぎる空気感を全て内包しているので、こんなものを有り難がっているうちは自称「映画好き」の皆さんもお終いだな、と思ってる。

一応(大衆娯楽以外の)現代映画というものは反体制的というか、自由主義的な志向の強いリベラルな空間だったはずだと記憶している。最近のカンヌ受賞作を見てみてほしい。そんなのばっかだと思う。別にこれが良いとか悪いとか、この場ではそんな議論はしないけれど、日本のミニシアターだって近年は国内のみならず海外のそういった先鋭的で革新的な思想をもとに撮られた映画を上映しようとしてきた経緯があったはずだよね。アップリンクのまずいところは、そんな中でミニシアター界のボスとして振る舞ってきたにも関わらず、パワハラとか個人の尊厳の否定とかいうおよそ自らの配給している映画の理念とはかけ離れたものを元従業員に白露された点だと思う。でも、これは雇用者が悪いとかいう単純な話ではなく、今の映画を取り巻く構造の問題で、それでもってこれが冒頭に述べたキツさの正体なんだと思う。

ミニシアターの求人を探して見てほしい。殆どが最低賃金(実質はそれ以下)で労働条件もふんわりしている。それなのにいざ求人を始めると何百人も応募してくるなんてザラ。ほぼ受からない。なんでミニシアターで働きたい人間がこんなに多いかって、そりゃやっぱりみんな大好きな映画を仕事にすることに憧れてるからだと思う。だからやりがい搾取されても喜んで働く。彼らは、(ぶっちゃけ大したことしていないのに)我が物顔で劇場に立ってる。彼らは「提供する側」で、映画を「与えられる」観客に対して優越的な地位にいると錯覚している。

やりがい搾取の構造は、映画製作の現場でも昔から横行していた話だと思う。ポン・ジュノのどこかのインタビューで監督はそういうのとも闘って来たって書いてあった。映画が克服しようとしているその旧態依然としたシステ厶を、ミニシアターが放置しているのははっきり言って怠慢としか言いようがない。

この文脈でいうと、アップリンクはミニシアターに加えて配給もやってるからちょっと面倒くさい(これが思い上がりの元凶でもあると思う)けど、要は僕が言いたいのはミニシアターの箱も配給も、提供する側は神様じゃないし何も偉くないってこと。アップリンクが潰れても他のどこかが代わって作品を配給するだろうし、それなりの需要はあるんだから人口密集地に新しいミニシアターが生まれることもあると思う。あくまでも客がいるから成り立ってる商売ってこと。

けれどその客がこれまた問題で、僕は常日頃、なんで彼らがアップリンクなんて酷いおままごとのような箱にわざわざ出向いて小さいスクリーンとチャチな椅子に収まって映画を見ることが出来るのか理解できなかった。果たして、アップリンクで「映画を見た」と言えるのか疑問だった。観客が無条件でこれらを受け入れているというのはつまり、配給だったり上映だったりの大いなる勘違いを許していることに変わらないんじゃないかと思う。アップリンクは儲かってないから箱はクソだけど、その高らかな理念に共感してあえて見に行くのなら、(これまでは、)まだ良かった。ただ、今後もアップリンクに行くことを高らかに宣言して、早々にアップリンクを擁護することに回るのはもうそれは決定的に違うんじゃないかと思える。

客は、己のメンタリティを変えなければならない。その結果、馴れ合うことなく、配給やミニシアターとも対峙しなければならない。相手に聞き入れさせるには、「見放す」という選択肢をもってその存在と力を示さなければならない。客が当事者意識を持って改善を求めなければならない問題が山ほどある。でなければ客が映画に依存し、ミニシアターがそれに甘えているこの界隈は何にも変わることない。だからこそ、今回はこんな挑発的な記事を書いた。


映画はファッションじゃない。羽織るには重すぎる。あくまでも向き合うべきものなんだと僕は思う。映画は待っていたら与えられるものでもない。あなたは主張しなければならない。映画はあなた自身であるとあなたが信じているのならば、映画と地続きに在るリアルも全てひっくるめて批評しなければならない。

それが映画を愛すってことだと思う。
そうでないのなら、「あなたに映画を愛しているとは言わせない」。あなたにはまだその覚悟が無い。