コロナ時代の職業選択

コロナ禍で、人々の仕事に対する見方は大きく変わる、いや既に変わりはじめている。具体的には、人々が仕事を強度や安定度といったまなざしで見るような傾向が強くなる。これは、言うならば人々が今後職業のデュー・ディリジェンスなるものに少しは注意を払い、職業選択のタイミングで各々考えられるリスクを挙げて、その職業の将来性や期待される収入などに負荷をかけてシミュレーションするようになるのではないかということでもある。

 

何故急に映画の話しかしない人間がこんな話に始めたのかというと、それはやはり、東京女子医大・ボーナス支給ゼロで退職希望400人超(これはどうやら撤回されたようだけど)といったインパクトのある記事や、身の回りでも渋谷の有名クラブの閉店、有象無象のライブハウスの閉店、池袋のジャズバー・バガボンドの閉店など、コロナの煽りを受けて各所で経営に傾いた店が閉まってきたからに他ならない。

 

先に断っておくと今回の記事は「びっくりしたんだよね」と言いたくて書いただけで、disでも何でもないので、この記事を見てくれてる人たちにはどうか精神を荒立てることなく、リラックスして読み進めてほしい。とりあえず、僕がこの一連の流れを目の当たりにして不思議に思ったのは、「なんで彼らは被害者ヅラをしてるんだろ」ということだった。彼ら(医師、看護師、バンドマン、飲食店主...コロナで煽りを食らった人々)は確かその職業を職業選択の自由のもとで選んだはずだった。人は、(少なくとも僕は、)何か自分の人生における重大な選択をするときには、とりあえずリスクを考える。そしてそのリスクの内訳を分析して、許容できるものか考える。これらが済んだらゴーサインを出してリスクテイクしていく。僕は、これが自由主義の法のもとで絶えず選択を繰り返さなければならない現代人が会得すべきごくごく初歩的な生き残りの技術(普通の暮らしを送るといったことはこの選択に正解し続けるということであり、現代においてそれはかなり難易度の高いものとなってしまった)なのだと思っていたし、選択の洪水と強迫観念こそが自己責任の真の姿なのだと本気で思っていた。

 

医者や看護師になるということはつまり感染症が起こると現場に駆り出されるということだし、自衛隊員になるということは国境で小競り合いが起きたら命を落とすかもしれないということであり、バンドマンになって夢を追うということは殆どの場合、生活の金銭的充足を諦めるということであり、飲食店主などのスモールビジネスを始めるということは一度経営が傾いたら立て直せなくなるということだ。

 

もちろん、こんな単純な前提があるとしても看護師がストライキをしたり医者が職務放棄をしたり、バンドマンが何も出来ず途方に暮れたり、人々が助成金を要求してデモをしたりするのは自由であって、物事のメリットだけを見て判断し、デメリットに当たったときには行政を非難するというのはそれはそれで正しい姿だ。どこかの看護師がツイッターで「職業的使命感から仕事をしてるわけじゃなくて金払いがいいから仕事をしてるんだよ」などとキレていても、何だコイツは...とは思うがこれはこれで構わない。だけれど、分かっていたことに対して善意無過失を主張されるとこっちも擁護する気が失せる。仮に本当に分かってなかったんだとしたらそれはおめでたすぎるというか、人生に対して無責任すぎる、または選択に対して無自覚すぎるということで、それはそれで嫌悪感が出てくる。こんなままではいつまで経っても何も起こらない。彼ら、彼女らがその仕事のメリットだけを享受したいのであれば、社会にその有用性を示し、社会を味方につけないといけない。ムーブメントを起こし、デメリットを潰していく必要がある。これは個人的なリスク管理の社会への拡張であり、現代社会の乾いた個人主義を打開する有効な手立てでもある。そして個人的なリスクを社会のリスクと紐付けることは看護師に出来てバンドマンには出来ないことでもある。ただ、社会の力、人々の共感の力を借りるというのはつまりこちらも相応の対価を差し出す必要があるという事だし、看護師の場合それは自身に死の危険が迫っても病棟から逃げ出さないこと、となるだろう。現在看護師が高給取りなのはそのヘッジできないリスクに対する社会的補填だとも言えるのだ。

 

確かにコロナは予測不可能で、個人のリスク管理の範疇外にあるものだとは言えるかもしれないし、実際そうなのだろう。けれども、「今後は」、個人のリスク管理にコロナだって組み込まれていく。だとしたら今、刷新された職業のデュー・ディリジェンスを考えることに意味はある。これが今後の職業選択のスタンダードになるような気がしてならない。