アピチャッポン・ウィーラセタクン『世紀の光』について

久しぶりに映画を見た。リハビリでお気楽なアクション映画でも見ようかと思っていたのだけれど、何故か抗えない意志の力によって手にとってしまったのはアピチャッポンだったので、これまた久しぶりに記事を書いた。ちなみに僕がアピチャッポン映画を見るのはこれが2作目で、今まで『ブンミおじさんの森』しか見たことないし、ブンミおじさんはもう中身忘れたからこの記事は作家論って事ではないよ。


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今作の構図、これには=空間(場)、=シンドロームといった重層的な意味の横断があるという、何よりも映画的な前提があることに一種の(構造を把握できることへの)安心感を覚える。と同時に、イーストウッドを語る時などの、あの何から手を付けていいか全く分からなくなる無力感を感じることがないのは、果たして映画本来の持つ情報量から言って表現の健全な発展と言えるのか疑問に思わないでもない。とりあえずはこの雑文において以上で挙げた構図、空間、シンドロームは≒Nearly Equalなのでその点留意して読み進めていただきたい。

 

アピチャッポンを見るうえで、個人的に気になるのは構図に人がハマり、そして抜けていくことに関して小津を越える意識を向けさせられるところにある。写真ではなく動画であるところの映画において、構図が常にキマっているというのは不可解にして不可能なことであり、構図は常に定まることと定まらないことの強弱の間を往復することを余儀なくされている。

 

一般的に、アピチャッポンのカメラワークは誰かがいたあとの魂の残滓、または魂の収まるべき場を強く意識させるとされている。これに似たようなコメントはフィルマ(映画のSNS)を開けばいくらでも出てくる。しかし、そこに投稿しているほとんどの人間はアピチャッポンについてスピリチュアルだ、霊的だ、東洋的だとかいうふんわりとした感想を持つ以上の知的遊戯ができていない。

 

アピチャッポン映画に誰もが抱くお盆の時期のようなこのヒンヤリとした感触は、構図の揺らぎとともに考えられるべきである。“ハマる”方は構図に主体があり、“抜ける”方は人に主体があるという、映画の力学的な評価につながる。とはいえ、映画における構図と人の問題はぶっちゃけ卵が先か鶏が先かという、因果関係のない相関関係に成り立つものであるから、これを大真面目に考察するというのは「現実」を援用する限りにおいてはまるでナンセンスなのだけれど、しかし本作のように監督の意図が介入する場合、「フィクション」としては成り立つ。

 

さて、本作においてはどちらの力学が設定されているかというと、“ハマる”方、つまり空間である。これは同じ人物が時代を超えて空間に在ることからも自明であるし、作品終盤の、排気口へと吸い込まれていく煙にカメラが長回しでゆっくり近づく象徴的なカットからも映画術的な説明ができる。

 

空間は言い換えるならば、シンドローム(原題から。意訳して「社会の症例」としておく)であり、その症例とは人のプリミティブな要素(恋愛、闘争など)が創り出すもの、もしくはそのものである。空間が、シンドロームであるならば、そこに存在がハマってしまうのは必然であると言える。人が空間を作るというよりは、空間がそれを埋める存在を欲しているのだ。過去と未来は空間として等価とされているからこそ、そのどちらにもある仏像のように男性医師が空間を超越し過去と未来において存在することは可能なのである。しかしそれは等価であるからこそ「外でもないあなたも」というわけではない。自然が駆逐され、近代化、工業化されたように、未来に女性医師はいない。そのシンドロームを男性医師は治療することができない。

 

しかし、最終的に映画はペシミスティックな調子で合わることはなく、結論を公園のエアロビ集団にポイッと放り投げている。これは、それまでのしっとりとした院内での人間の動きとはまるで違うエネルギーを感じさせるものであり、ゆうてもこれは臨床的な映画だから、といったようなオプティミスティックな軽さで終わるので、この振り幅が緻密な小細工を超えて何よりも映画的でズルいなとも思う。