濱口竜介『ドライブ・マイ・カー』

今年のカンヌといえば、調子に乗った還暦のカラックスが小汚い出立ちで所構わずタバコを吸っているところを(映画作家のテンプレ的姿として)マスコミにフィーチャーされ、大衆のオモチャになっている様を見せつけられたことまでは記憶している。自分のヒーローの受けている痛々しい扱いに随分と悲しい気持ちになってしまったので、それ以上の情報には触れないようにしていたのだけれど、それでも、濱口が圧倒的に着られている感のあるタキシードで脚本賞受賞のため登壇し、なかなかしっかりしたスピーチをやってのけたという話は流石に耳に入ってきていた。ということもあり、仕事の案件が一段落し、心の余裕が戻ってきたタイミングで見に行かないかと友人から誘われ、久しぶりに劇場に足を運んできた。

 

全体的な雰囲気としてはヴィム・ヴェンダース『誰のせいでもない』を思い出した。最早どういう内容だったか覚えていないし、こちらはヴェンダースが「人物の心の深い奥こそ3Dで語るにふさわしい」とか言って大コケしていたけれど。

 

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さて、本作だが、村上春樹が原作で提示した問題意識を映画に置き換えることに成功していると言っていい思う。村上春樹の作品ではそれ自体が語られることはない記号化した言語が、ここでは現実に発せられ、スクリーンを音で埋め尽くしている。

 

これほどまでに過剰に散文化した言語の挿入は、映画の悦びを否定することと並行して行われており(例えば、身体性の発露は極端に抑えられ、移動によって有り得たはずの運動は全て車に置き換えられている)、そこに観客は強烈な嫌悪感を覚える。それでも観客が三時間も画面を無理なく見続けられるということ自体濱口の卓越した手腕によるものであり、また、こうも躊躇いなく映画を主題の成就の手段としてしまうことに驚きを隠せないのだが。

 

この違和感が、村上春樹の言葉(石という表現は短編「タイランド」より)を借りるのならば、自分の中に石を持つ観客の認識を揺るがす契機ともなる。

 

映画の目的が村上春樹の目的を忠実にスクリーン上に再現することであったことは明白であり、つまり片割れを喪失した者同士(主人公とドライバー)が心の奥底に抱えていた石の輪郭を相互コミュニケーションの中で発見し(終盤、訪れる無音は、積み重ねられたテキストの欺瞞が暴露されることの象徴でもある)、最早語り得ない現実の出来事≒石と自らがそれを語ることの永遠のズレを認識することで、雪解けの契機を促すことになる。

 

最後ドライバーは車と犬という主人公と、韓国人夫婦の記号≒石を譲り受け、異国にて再出発する。それが彼女のズレを知覚させ、過去からの解放へと向かわせることを期待させて。

 

と、まぁ今回の記事が濱口による村上春樹の主題の映画への華麗なる置き換えを確認する作業になってしまったことは否めないけれど、それでもカラックス的なホテルの外観の描写、タルコフスキー的な道路の描写、またはキアロスタミ的な車内の描写、アンゲロプロス的な海を眺める階段で向かい合う二人の描写等、映画の記憶の宝箱を覗き込むような、名状し難い幸福な体験がそこにはあった。

 

村上春樹の「いえ、僕全然セックスとか興味ないです」みたいな去勢された感じで書いてきたのに、いざそのシーンになると急にどっかにしまってた金玉二つ装着して脂ぎったねちっこい中年オヤジを隠せなくなるところ(ここが本当に村上春樹のキモくてダメなとこ)も冒頭で再現されてていい感じ。濱口、本当に優秀なヲタクだ。